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都江堰トコウエン

  • 都江堰(トコウエン)
  •  都江堰は四川成都平原西部の岷江の上流、成都から56kmの場所にある古代の水利・灌漑施設。岷江が龍門山脈を抜けて成都平原(四川盆地の西部)に出るところに形成された扇状地の扇頂部に設けられている都江堰は岷江の水を左岸(東側)一帯へと分水している。現在でも5,300平方kmに及ぶ範囲の農地の灌漑に活用されており、古代の優れた土木技術を今に残すものである。それまで水不足に苦しんでいた成都平原は水田や桑畑などが急速に広がり水運も便利になり、「天府之国」と謳われる大穀倉地帯となった。都江堰は以後も改良や補修を加えられ、2300年後の現在もなお機能する古代水利施設である。現地には、李氷の偉業を讃える石像も建てられている。1982年には国務院の指定する全国重点文物保護単位の一つとなり、2000年には青城山とともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
  •  2008年5月12日の四川大地震では都江堰の先端の「魚嘴」部分にひび割れが入り、二王廟などの寺院群が倒壊するなどの甚大な被害が出たが、堰の機能には大きな影響はなかった。
  • 都江堰の構造
     北から南へと流れる岷江に中洲を造り、西側(金馬河)を岷江本流とし、東側(灌江)を農業用水として活用する。堰は川を分水する「魚嘴」、土砂を灌江から排出する「飛沙堰」、灌江の水を運河へ導水する「宝瓶口」という3つの堤防状構造物からなる。  この他、川沿いの堤防(金剛堤・人字堤)、付属建築などもある。農地の灌漑・排砂・水運・街への生活用水の供給などを果たす、古代人の知恵を偲ぶことができる構造である。
  • 都江堰 魚嘴
     岷江の流れを適切な比率で本流と灌江に分ける「魚嘴」は最も重要な構造物である。外側本流の広さは150m、内側の灌江の幅は130mとなっており、川の地形も活用して水量を配分している。春の水量が少ない時期は4割が本流へ、6割が灌江へ流れ農業用水を確保する。春や夏の増水時には水が「魚嘴」の先端を乗り越えるため、6割が本流へ向かい灌江があふれるのを防ぐ。これが「分四六、平潦旱」と表現されているこの堤防の機能である。
     「魚嘴」の先端部は半月形でその名の通り魚の口状となっており、現在は石とコンクリートで築かれている。長さは80m、幅は広い所で39.1m、高さは6.6m。「魚嘴」の下流には「金剛堤」が続き三日月状の中州を形成する。灌江側は延長650m、本流側は延長900m。金剛堤と中州が終わった部分より下流には「飛沙堰」という灌江から本流へつながる排水路と、さらなる中州と堤防の「人字堤」が続く。「魚嘴」の上流には全長1,950mの「百丈堤」という護岸があり、あふれる水と土砂を川の西寄り(本流)に跳ね返すようになっている。
     歴史的に、「魚嘴」の位置は、岷江流域を襲う大洪水や大地震などにより変動しており、建設当初より2km近く下流にある。現在の位置は1936年の改修工事で確定した。
  • 都江堰 飛沙堰
     堰の中ほどにある幅200mほどの開口部・「飛沙堰」は灌江側から本流側に土砂や余分な水を戻すためのもので、洪水になっても灌江側が氾濫しないように、灌江側の水流が岷江本流へ戻るような仕組みとなっている。
     もとは「侍郎堰」といい、唐の高宗の龍朔年間(661年 - 663年)に建設された。飛沙堰は、金剛堤の上流側から710mの位置に、灌江側から本流側に向かって斜めに開いた開口部で、その幅一杯に川床から2mの高さの堰が作られている。運河に水が殺到し成都平原で洪水にならないよう、また運河が土砂で埋まらないように設けられたもので、遠心力で土砂や石が本流側に向かうように設計されている。渇水時に川面が低くなった時には、灌江の水は飛沙堰に阻まれて全量運河側へ入る。
     水が運河の入口(宝瓶口)からあふれた時や増水の時は、水は宝瓶口の手前で滞留し回転し、飛沙堰を乗り越えて本流へと流れる。同時に、灌江側にある虎頭岩を周りこむ際の遠心力で土砂の大半が本流側に排出される。
  • 都江堰 宝瓶口
     宝瓶口は玉壘山の断崖に切り抜かれた狭い導水路で、その名の通り瓶の首のように細く、ここで灌江から用水路へ水が導かれ、ここから入れない余った水は120m離れた飛沙堰を乗り越え本流へ排出される。古代の灌県城の西門・玉壘関の下にあり、都江堰の建設と同時に作られた。宝瓶口は上が広く下が狭く、頂上部の幅は28.9m、底部の幅は14.3m。灌江から運河へ向かう部分の幅は70mあるが、ここで瓶の口のようにせまくなることからこの名がついた。
     宝瓶口も飛沙堰と同じく、運河へ入る水の量を調節する。春季、灌江から宝瓶口を通過した水は成都平原の広大な水田を潤す。しかし増水時には、宝瓶口の手前の飛沙堰を水が乗り越えてしまうため宝瓶口に達する前に水が本流に流れてしまい、さらに宝瓶口が入る水の量を制限するため、灌漑路の沿岸では洪水にならない。宝瓶口より先では、運河は西北が高く東南が低くなるように作られているので水は自然に東南の平野の方へ流れるようになっている。
     宝瓶口の左側の山の崖には、一市尺ごとに数十本の目盛(水則)が刻まれ、これは古代中国の現存最古の水位標識である。成都平原で次々水路が作られ灌漑対象地域の拡大により、必要な水量は時代ごとに増加していった。宋の時代には目盛りは10本しかなく、下から6本目の水量で農業用水は足りた。元の時代には9本目が最善とされ、それより水量が多くても少なくても成都平原は困窮した。清の時代には目盛りの16本目までの大洪水が記録されたが、今日は目盛り数が24本に増え、春の農業用水には14本目までの水量が必要である。
     宝瓶口の右側の山は、運河開削で左側の山から切り離されてしまったため「離堆」の名がある。山の上には李冰を祀る伏龍観(別名:老王廟)がある。宝瓶口の両側の岩盤は2000年の間に急流で次第に削られ、大きな空洞ができてしまったため、1965年と1970年に離堆が補修された。
  • ※ ST-0106 成都発 世界遺産の都江堰と青城山1日観光ツアー (毎日催行)
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