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大理古城
- 大理古城は、大理ペー族自治州の観光の中心となる所である。行政の中心地、下関からは北に約15q離れている。一辺約3kmの城壁で四辺を囲まれており、東にジ(三点水に耳)海を、西に蒼山を望む。現在、古城内ではペー族を中心とした約2万人が生活している。
- 南詔国(7世紀末〜902年)、大理国(937〜1253年)の都となったのがこの場所で、約500年間、雲南の政治、経済そして文化の中心として栄えた。現存する大理古城の姿は、明の洪武15年(1382年)から整備されたものである。四辺を約12kmの城壁で囲まれ、東西南北それぞれには城門が備えられる。古城内には昔ながらのペー族の建物も数多く残り、少数民族風情を強く感じられる。 城壁にはそれぞれの城門から登ることが出来、瓦屋根の重なった美しいペー族の建物を見渡すことも出来る。
- 標高2000mの地に位置するこの美しい街は、西洋人からは「東洋のスイス」と呼ばれ、中国人からは「西南の敦煌」と呼ばれている。
- 南門から北門にまっすぐ延びる「復興路」が古城のメイン・ストリートである。石畳が整備されたこの通りは車も進入禁止となっている。通りの両側には古い建物を利用した銀細工や藍染、大理石製品などを売るお土産屋さんが並んでいる。この通りの南門そばには「大理市博物館」があり、中心には銀行やスーパーもある。復興路の北門近くは市民の日用品を売るお店や床屋さんが並び、古城の日常の姿を見ることが出来る。
- 古城中心付近で復興路と交わっているのが「護国路」である。この通りは外国人観光客向けのゲスト・ハウスやカフェが集まり、通称「洋人街」と呼ばれている。連日、夜中まで外国人観光客でにぎわっている。 復興路より東側は古城市民の居住地となっている。
- 南門を出て西にまっすぐ進むと「弘聖寺一塔」が建っている。更に西の蒼山のふもとには「天龍八部映画村」が広がっている。 西門を出ると、正面から蒼山のふもとまで「三月街」という広場が延びている。ここでは毎年旧暦の3月15日頃に「三月節」というペー族のお祭が開かれる。三月街を抜けたところには「元世祖平雲南碑」が建っている。 西門を出て北にまっすぐ歩くと10分ほどで「崇聖寺三塔」に着く。
- 南詔国と大理国
- 7世紀から8世紀の初め、ジ海周辺にイ族を中心とした「六詔」と呼ばれる6つの国が現れた。その中の1つで、6カ国の中で最も南に位置した「蒙舎詔」が統一してできたのが「南詔国」である。中国中央王朝の唐が外敵である吐蕃への対抗策として蒙舎詔を支援したのも、南詔国成立の一因となった。蒙舎詔の王「皮邏閣」は738年に唐の朝廷から雲南王に封じられ、これによって正式に南詔国が成立した。 その後、南詔国王は妻が唐の役人に馬鹿にされたことに腹を立て、751年、吐蕃とともに唐と戦争(天宝戦争)を行い、唐軍を敗北させた。これ以後、南詔国は吐蕃と兄弟国の関係を結ぶ。
- 南詔国は649年に細奴羅が酋長となってから902年に滅びるまで、13代、約250年間この地方に君臨した。南詔国時代に雲南の地に仏教が広がり、寺院の建立と観音崇拝が流行した。一般に南詔文化と呼ばれる。
- 南詔国は902年に崩壊する。その後、大長和国(902〜928年)、大天興国(928〜929年)、大義寧国(929〜937年)の3国が次々に興ったが、その混乱を収めたのが段思平である。段思平は祖先が南詔国にも仕えたことがあるこの地の貴族で、通海の節度使となっていたが、減税と徭役の減免を掲げ農民の支持を集め、937年に再び雲南を統一した。これが「大理国」である。
- その後の大理国は国王段氏一族の力が弱まり、高升泰が建てた「大中国」、段正淳が建てた「後理国」と国の名前も何度か変わった。その後も高氏一族に実権は握られたままだが、1253年に滅びるまで22代、316年間続いた。
- 大理国時代、雲南では仏教が益々栄えるようになった。仏教は国教となり、9人の国王が出家して仏僧にもなっている。大理国は「佛国」とも「妙香国」とも呼ばれている。
- 13世紀初めにチンギス・ハンがモンゴルの地を統一したモンゴル族は、1234年に中国北部の金を滅ぼす。その後徐々に南下し、1253年にはフビライが10万の兵を率いて大理国にも攻め入る。こうして大理国は滅びた。
- 南詔国と大理国はともに大理を都とし、約500年間、大理は雲南の政治、経済そして文化の中心となった。