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西安 五丈原(ごじょうげん)
- 五丈原(ごじょうげん)は、陝西省宝鶏市付近の渭水南岸に広がる台地。蜀の軍師諸葛亮はここに陣を敷き、魏の司馬懿と持久戦を繰り広げた。戦いの最中、諸葛亮が病によりこの地で没したことは有名。
- 234年春2月、蜀の諸葛亮は魏への遠征(第五次北伐)を再開し、褒斜道を通って長安をめざす構えを見せた。司馬懿は諸葛亮を迎え撃つために、軍を率いて出撃し、人口が集中している渭水の南に砦を築き、防備を固めた。司馬懿は諸将に対し、「諸葛亮が勇者なら武功に出て東進するだろうが、五丈原に布陣するなら問題ない」と語っていたが、果たして諸葛亮は渭水南岸の五丈原に布陣した。諸葛亮は渭水の沿岸で兵士に屯田を行わせたが、軍規は厳正で当地の民は安堵したという。魏の皇帝の曹叡は秦朗に2万の兵を与え、司馬懿の援軍として派遣した。また、曹叡は「砦の防備を固め、守備に徹するべし。敵の食料がつきて撤退したとき、追撃するのが、遠来の敵を迎え撃って勝利を得る方法である。」と司馬懿に勅令を下した。
- 司馬懿率いる魏軍は、渭水を背にして五丈原を望む形で対陣し、柵を築いて砦の防備を固めた。諸葛亮は陽動作戦を用いて魏軍を攻撃したが、郭淮に作戦を見破られて防がれた。さらに諸葛亮はさまざまな手を使って司馬懿を挑発して魏軍の出陣を誘った。魏の諸将の間には撃って出るべきという気運が高まっていたが、皇帝の曹叡から出陣を禁じられていることを理由に司馬懿は挑発に乗らなかった。
- 蜀軍と魏軍の対陣は100日余りに及んだが、234年秋8月、諸葛亮は病死し蜀軍は撤退した。魏軍は撤退した蜀軍を追撃しようとしたが、蜀軍は反撃の形勢を示し、司馬懿は慌てて軍を退いた。人々はこれを揶揄して諺を作り「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言った。司馬懿は人づてにこのことを聞き、「私は生者を相手にする事は得意だが、死者を相手にするのは不得手だ」(『論語』の「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」に基づいたと見られる)と答えたという。司馬懿は撤退後の諸葛亮の陣営を視察し、「天下の奇才」という感想を漏らした。